8月某日、私は地元栃木県のアピタにいた。
秋に着る服を1着、ここで買っておきたかったからだ。
都内で服を選ぶなら迷いに迷って(途中、スタバなどの休憩も挟んで)貴重な休日が終わることもよくある。
が、地元アピタだと迷うことなく購入する服が決まった。
都内に戻ったら、地元で買ったこの服を着てまたリフレを頑張ろう。
そう自分を奮い立たせる。
都内で1人働いていると、地元の匂いが恋しくなるときが多い。
そんな時のために、地元で服を買っておきたかった
服を買うと、もうアピタに用が無い。
エスカレーターで1階まで降りていると、ちょうど正午の店内放送が流れた。
エスカレーターを降りたところに、昔、家族でよく行っていたフードコートがあったので何の気なしに入ってみる。
ウォーターサーバーで水をくんで、席に着く。
目を疑った。ふと顔をあげると、正面のテーブルに父が座っていたのだ。
私がフードコートに入ってきた時から、父は気づいていたようだ。
ニッコリと微笑み、私を見てうなずいていた。
小さいころ、父には色んな場所へ連れて行ってもらった。
なかでも、このアピタのフードコートは、父に何度も連れてきてもらった思い出の場所である。
私が好きなマクドナルドも、ケンタッキーも、ミスタードーナッツも、ここには揃っている。
私はそれらを同時に買って食べるのが好きな子どもだった。
父は1人ラーメンをすすっていた。
私はマクドナルドでチーズバーガーセットを購入し、父の席に座る。
私がテーブルに置いたトレイの音に反応して顔を上げた父は「何だ来たのか」というような顔をして笑った。
久しぶりにこの場所で父と食事をし、懐かしさを覚える。
電車で自分のアパートへこれから帰ると父が言うので、見送るために駅に向かう。
途中、父はアピタの人ごみに酔ったのか気味が悪いくらいに頬と額が青白くなっていた。
父は昔から、人ごみが苦手だ。
「お金は出すからタクシーで帰りなよ」と何度も言ったが、「心配するな」と、父は全くとりあわなかった。
ホームに見慣れたあずき色の電車が滑り込んでくる。
父は大きく息を吐くと、急に私の頭をなでた。
「正月はこっち帰ってくるんだぞ。母さんも一緒に3人で御節料理食べような」
一瞬、「どうしたんだろう」と思った。
恥ずかしがりやの父は私の頭をなでることなんて記憶にある限り無かったし、こんな言葉も父らしくなかった。
ちょうどそのとき、電車の扉が開き、父は歩き出す。
私たちは手を振って別れた。
それから2週間ほどたった日、父が脳溢血で倒れたとの知らせを受けた。
通行人がアパートの入り口で倒れている父を見つけて救急車を呼んでくれたらしいのだが、既に手遅れだった。
まだ55歳。
あの日が、父との永遠の別れになるとは思いもしなかった。
父の訃報を聞いてから、東京を離れてしばらく地元に戻っていた。
Twitterの更新、ブログの更新、リフレでの接客。
それらを全く行わない1週間は、中3の春休み以来かもしれない。
葬儀などの慌しい日々が過ぎ、やっと落ち着いたころ、母と一緒に父が住んでいたアパートへ向かう。
父の遺品を整理するためだ。
離婚してから、父は足利から電車で40分ほど離れた場所へアパートを借りて1人暮らしをしていた。
父が住んでいたアパートに足を運ぶのは、私も母も今回が初めて。
父はどんな所に住んでいたのだろうと、2人とも電車で若干緊張しているようでもあった。
駅から歩いて10分。
父が住んでいたアパートに着いた。
愕然とアパートを見上げる。
母も同じような顔をしていた。
絵に描いたようなボロアパート。
こんな所に、家を出た父は1人住んでいたのだ。
大家さんに鍵を開けてもらい、父が住んでいた部屋に入る。
部屋に入るとすぐ、見慣れた父の机が目に飛び込んできた。
懐かしさに目頭が熱くなる。
父がよくこの机に座って文庫本を読んでいた背中を思い出す。
祖父母の遺品整理は非常に骨が折れる作業だったと記憶しているので、今回も母と2人意気込みながら取り掛かることにした。
しかし、父の遺品は驚くほど少なく、あっという間に、片づけが終わってしまう。
父は、何かを持つことを避けていたように思う。
貯金や不動産、社会的地位や名誉に全く関心が無かった。
私は、父のそんな生き方が理解できない。
人には欲があり、他人に認められたいと思うのが当たり前。
お金はあればあるだけ良いに決まっている。
同級生が大学へ進学したり、海外旅行や家を新築した話を聞くと、羨ましくて仕方なかった。
私たち家族は、車すら無い小さな家に住んでいる。
家族3人で暮らしていくのが精一杯。
何一つ贅沢ができない。
野菜が高騰したら野菜は食べれない。
ファッション雑誌なんて1冊も買った記憶がない。
NHKの料金が払えなくてテレビを捨てたこともあった。
父はお金を稼ぐ能力が無いのか月に手取り20万も貰えていない。
母は私が物心ついた頃からずっと地元のスーパーや食堂でパートをしている。
とにかく家は貧乏だった。
にも関わらず、地味で平凡な生き方しかしないような父が、もどかしく腹立たしかった。
父は家族のことを何も考えていない。
自分が1人で生きているつもりでいる。
いつの日かそう考えるようになり、母と離婚するまでの数ヶ月間はほとんど家にいても父と口をきかない日々が続いた。
私は、そんな生活から抜け出すために、地元を離れてJKリフレ嬢になる。
JKリフレで稼ぐようになってから生活が一変。
モノクロだった世界が全てカラーで見えたような。
見たことも無いような大金が、毎日転がり込んできた。
自分がやりたかった事が全て出来る。
福沢諭吉に喜んでレイプされて、
その快感に酔いしれていた。
その結果、父の異変に気づかなかった。
父の遺品整理は終わり、後は大きな家具の処分を残すのみ。
父がいつも使っていた机の引き出しを開ける。
ほとんど空っぽであったが、見覚えのあるものが綺麗にしまわれていた。
私が毎年贈っていた手書きの誕生日カードだった。
大切に保管されている何枚ものカードを手にした時、
はじめて父がなにを思い私を育ててくれていたか、分かった気がした。
豪商の家に生まれた父は、経済的には恵まれていたそうだ。
しかし戦時中に祖父が他界し、父は女手ひとつで育った。
親子の思い出がなく、さびしい思いをしたらしい。
だからこそ、自分と同じ思いを子どもにさせたくない、
家族と過ごす時間を大切にしたいと思ったのだろう。
「あそこへ連れて行ってやろう。おいしいものを食べに行こう」
今改めて振り返ると、それが父の口癖だった。
金が無いくせに、金も稼げないくせに、自分のことは置いておいて、いつも家族を喜ばせることを1番に考えてくれていた。
カードを見つめ父のことを考えていると、いつのまにか母が後ろにいた。
「あんたが東京で暮らすようになって、お父さん寂しそうにしてたわ。でも立派に働いてたくさんお金を稼げるようになって、自慢の娘だって」
父に、財産と呼べるものはなにひとつないかもしれない。
でも、今の私の胸には父と過ごした思い出があふれている。
そのことに、気がついた。
今まで考えもしなかった父の思いにふれ、涙が止まらなくなった。
私の何が立派なのか。
男に身体を売って、男に媚びて、金を稼いでいるだけ。
何も自慢の娘じゃない。
ここまで育ててもらえたのに、何の恩返しも出来ていない。
よく分からなくなって、私は父のアパートで泣いていた。
せめて残された母だけでも幸せにしたい。
私に結婚は無理だろうから。
父がそうしたように、家族と過ごす時間を大切にして生きていきたい。
母をもっと楽にさせてあげたい。
せめてそれが、今の私にも出来る父と母への親孝行。
恩返しなのではないかと思った。
最後に言うけど、
母が父と別れた原因は、JK
父は出会い系サイトで知り合ったJKに手を出して、
職と地位と名誉と人権と金、全て失った。
父も男だから魔が指してしまったのだろう。
そう思いたかったが、
どうも魔が差したというレベルではないほど、
JKと身体を求め合っていた。
父の遺品であるスマホには、
様々なJKとのハメ撮り写真が残されていた。
その写真の中には、私の母校の制服を着たJKも。
父は、JKが原因で人生が狂っても、家族を失っても、
JKの身体を求め続けていた。
私とアピタで会った最後の日も、
あの後足利のラブホでJKとヤっていた。
LINEのやり取りを見ると、
当日はそのJKとフードコートで待ち合わせをしていたらしい。
そこに、
都内にいるはずの娘が来たわけだから、
さぞ父は驚いたことだろう。
父は、懐かなくなった娘の代わりをJKに求め、
家族との思い出の場所をJKとの待ち合わせ場所にしたのだろうか
父が出会い系サイトを利用してJKに走ったのは、
父を避けるようになった私が原因なのだろうか。
稼いだお金は、いつから、いくら、JKに流れていたのだろうか。
今となっては全部、知りたく無いし考えたくもない。
ただ、私の話をここまで読んでくれたあなたには知って欲しい。
父がJKに狂ったこの場所を。
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